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藤原純友(安政2年、芳直画、築土神社蔵)
藤原純友を討ち取った橘遠保(国芳筆、築土神社蔵) | 藤原純友(ふじわらのすみとも)は892年(寛平4年)筑前守 ・藤原良範の次男として生まれた(出生年については諸説あり)。当時、瀬戸内海を荒らしていた海賊の討伐を朝廷より命じられるも、936年(承平6年)、自ら海賊の親玉となり日振島(愛媛県宇和島市)にて反乱を起こす。各地で官軍を撃破するが次第に追い詰められ、天慶4年(941年)2月藤原国春に破れ九州大宰府に敗走。
その後、日振島に脱出するも、天慶4年(941年)6月20日、伊予国(愛媛県)警護の橘遠保(たちばなのとおやす)により討ち取られる。この一連の合戦と、これと同時期に関東で起こった将門の乱とを合わせ「承平 ・天慶の乱」と呼び、古代律令時代最大の戦乱とされている。
純友は将門のように神や英雄として崇められることも少なく(築土神社とも直接の関係はない)、純友に関する伝説や資料も乏しい。しかし、『大鏡』や『神皇正統記』では、純友と将門は実は共謀していたとも記されているし、将門と対比して語られることも多く、『大日本史』などではともに「逆賊」として位置づけられている。
純友は、将門を語る上で無視できない西国の「敗者」なのである。余談だが、旧住友財閥の住友家は、もともと愛媛県の出身で、純友の子孫だともいわれている。今でも、愛媛県には住友の末裔と名乗る家が多いそうである(秋田書店 『平将門と藤原純友』参照)。
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