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 小野忠明(神子上(田)典膳)(東京都立図書館蔵)
江戸時代初期の飯田町は武家地であり、その一帯には大名や旗本の屋敷が連なっていた。室町時代の創始とされる世継稲荷(築土神社境内末社)も当時は幕臣 ・松平主計頭近鎮(まつだいらかずえのかみちかしげ:1645-1716)の屋敷内に鎮座した(「近鎮」は「ちかやす」とも読む)。元禄3年の飯田町地図(下図)では、確かに「九段坂」と「モチノキ坂」の中間(ちょうど現在の中坂下あたり)に「松平主計頭」の名が見える(□)。
 □が世継稲荷のあった「松平主計頭」の屋敷で□が「小野次郎右エ門」の屋敷 (参考:原書房 『江戸城下変遷絵図集』)
そしてさらにその左隣に目をやると、「小野次郎右エ門」との名があるのが分かる(□)。「小野次郎右エ門」は、徳川幕府の剣術指南役の任にあった小野派一刀流開祖 ・小野次郎右エ門忠明の名で、以降、小野派一刀流の宗家は代々「次郎右エ門」を名乗っていることから、この場所も当時は小野家代々の拝領屋敷であったと考えられる(この屋敷はその後、元禄10年[1697年]の大火で類焼し、江戸 ・京橋へ移転)。
小野派一刀流開祖 ・小野次郎右エ門忠明は前名を神子上典膳(みこがみてんぜん)といい、三重県伊勢市の生まれとされる。当初は父とともに上総の里見家に仕え、幼少の頃より剣術に励んだ(享保元年[1716年]日夏繁高著 『(本朝)武芸小伝』参照)。
天正年間(1573〜1591年)頃、伊藤一刀斎に入門し剣の腕を磨き、1593年(文禄2年)には一刀斎の推挙で徳川家康に仕え二百石を与えられるとともに、当時14歳だった二代将軍秀忠の剣術師範になっている。1628年(寛永5年)江戸で没(69歳)。小野派一刀流は、江戸時代を通じて、同じく剣術指南役であった柳生新陰流と並び称され、「実力は小野」とまで言われた。
尚、小野派一刀流からは後に「中西派」が生まれ、さらに中西派の四代目・忠兵衛の門からは、幕末に名を馳せた北辰一刀流の開祖・千葉周作を輩出している(新人物往来社 『柳生一族 ・新陰流の剣豪たち』参照)。 | 関連ページ ↓ 【世継稲荷(田安稲荷)】
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