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 お江与(徳川秀忠正妻)
1634年(寛永11年)4月17日に記された『要用雑記』に次のような記述がある。
「津久戸は御城内氏神につき、大御台様御繁昌の時分は春日殿御取次ぎを以って御上様方へ御札御守、差上げ候」「正、五、九月、津久戸明神神前に於いて御上様御祈祷仕る」。
つまり、津久戸(築土神社)は江戸城(北の丸)の氏神(守り神)であったことから、「大御台様」が御繁昌の時には、「春日殿」(春日局:三代将軍家光の乳母)を通じて築土神社のお守りを御上様方(将軍の妻子)へ届け、さらに正月、五月、九月には御上様が自ら津久戸明神(築土神社)へ御祈祷に訪れたと書かれている。
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当時、将軍の正妻は「御台(みだい)」または「御台所(みだいどころ)」と呼ばれたが、これに特に「大」を付けて「大御台(おおみだい)」と呼ばれたのは、歴代の御台所のうち二代将軍秀忠の正妻 ・お江与(おえよ)だけであるから(新人物往来社『徳川十五代将軍実記』参照)、上記『要用雑記』にいう「大御台様」も、お江与を指すものと思われる。 |
 徳川秀忠像(揚洲周延筆、築土神社蔵) |  徳川家光像(永嶋孟斎筆、築土神社蔵) |
お江与が特に「大御台」と呼ばれたのは、お江与の地位 ・経歴、そして歴史に残した影響力の大きさによる。お江与は1573年浅井長政と信長の妹 ・お市の間に生まれ、姉の淀君は秀吉の側室となり、自身は秀吉の養女として信長の四男 ・秀勝に嫁ぐも、秀勝が1592年朝鮮出兵後に病死するや、今度は秀吉の策略で秀忠のもとへ嫁がされた。
お江与が秀忠との間にもうけた子は、千姫 ・子々姫(ねねひめ)・勝姫 ・長丸(おさまる:実はお江与の子ではなかったとの説もある) ・初姫 ・竹千代 ・国千代 (国松とも)・和子(まさこ)の三男四女。このうち長女の千姫(後の英樹院)は秀吉の嫡男 ・豊臣秀頼に嫁ぎ、四女の和子は御水尾天皇に嫁ぎ明正天皇を産み、そして次男(長男の長丸は二歳で早世)の竹千代は後の三代将軍 ・家光となる。 |

現在の江戸城北の丸(千代田区北の丸公園)。お江与の長女である千姫は、ちょうどこの辺りに居館したことから、「北之丸様」とも呼ばれた。 |
いずれも徳川幕府に与えた影響は強く、これによりお江与は大奥をはじめ徳川幕府中枢に、「大御台」と呼ぶにふさわしい確固たる地位を築き上げた。もっとも、お江与は竹千代よりもむしろ三男の国千代(後の駿府城主 ・徳川忠長で、駿河大納言とも言われた)を次期将軍に推しており、家光や春日局(家光の乳母)との仲は疎遠であったともいわれる。
ちなみに、お江与の生んだ子のうち、千姫(後の天樹院)と国千代(後の徳川忠長。駿河大納言)は、当時から築土神社の氏子であった江戸城北の丸内に屋敷を構え居館していた(下図参照)。よって冒頭に引用した「正、五、九月、津久戸明神神前に於いて御上様御祈祷仕る」との記述にいう「御上様」とは、あるいは千姫や国千代ではないかとも思われる。 |

寛永9年(1632年)の江戸城北の丸(現 ・千代田区北の丸公園)。□が「天樹院殿」(千姫)、□が「駿河大納言殿」(国千代、徳川忠長)の屋敷。(参考:原書房 『江戸城下変遷絵図集』) | 関連ページ ↓ 【春日局】
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