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清河八郎 | 沖田総司の姉ミツ |
1862年(文久2年)、清河八郎は将軍警護の名目で江戸の浪士を召し抱えるよう幕府に進言し「浪士組」を結成。京都へ上洛した。もっとも清河の真意は将軍警護ではなく、これを朝廷直轄の尊皇攘夷軍にすることにあったことから、清河に不満を唱えた芹沢鴨と近藤勇の各派は「浪士組」を離脱。京都守護職の任にあった会津藩の預かりで「新選組」を発足させた。
一方、清河の「浪士組」は江戸へ帰還させられ、当時江戸取締の任にあった庄内藩(鶴岡17万石、藩祖は徳川四天王・酒井忠次)の配下で「新徴組」を結成。清河八郎の暗殺後は勤王色を一掃して庄内藩13代藩主 ・酒井左衛門尉忠篤の預かりとなり、江戸市中の警護にあたった。
ちなみに「新徴組」と「新選組」はともに「浪士組」から分かれた組織であるが、お互いに交流もあった。例えば「新徴組」隊士の中川一と「新選組」局長の近藤勇とはお互いに手紙で交流を続けていたし、「新徴組」のちょうちんには、有名な「新選組」の山形模様が描かれていたという(新人物往来社 『新選組史跡事典−東日本編』参照)。
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新徴組屯所跡(千代田区飯田橋4丁目)
当時、酒井左衛門尉忠篤は築土神社氏子内の牛込元飯田町に屋敷を構えており、慶応元年(1865年)尾張屋板江戸図(下図)によると現在の千代田区飯田橋1丁目に「酒井左衛門尉」の名がみえる(□)。「新徴組」は以後1868年(慶応4年)までここに屯所を置き駐在。「新選組」一番隊組長沖田総司の義兄・沖田林太郎も後に「新徴組」に入隊し、総司の姉ミツと共にここで暮らした。現在、同所には「新徴組屯所跡」の碑が立てられている。 |
■が「田安イナリ」(世継稲荷)で□が新徴組屯所のあった「酒井左衛門尉」の屋敷 (参考:慶応元年尾張屋板江戸図)
関連ページ ↓ 【田安イナリ(世継稲荷)】
【近藤勇】
【永倉新八】
【池田七三郎(稗田利八)】
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