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 天海銅像(埼玉県川越市) | 現在「神社」と呼ばれるものの多くは、江戸時代には「神社」ではなく「(大)明神」や「(大)権現」の社号を掲げるのが一般的で、築土神社も、江戸時代当時は「津久戸大明神」ないし「築土明神」の社号を用いていた(明治7年に「築土神社」に改号)。
もっとも、「明神」と「権現」の語は明確に使い分けられていたようで、例えば、1616年(元和2年)江戸幕府初代・徳川家康死去の際、当初は家康を祀るための神号を「大明神」とすることに決定したが、その1年後の1617年(元和3年)天海の強い意向で、これを「(東照)大権現」に変更したとされる。
「大明神」の神号は主に吉田神道が神道優位の立場からその優越性を説いて提唱されたもので、家康死去の際も、当初は臨済宗の崇伝(1569-1633)らにより吉田神道での祭儀が主張されたが、山王一実神道を信仰する天海はこれを退け、結局、家康は山王一実神道に基づき「大権現」として祀られることとなったのである。
ちなみに豊臣秀吉は、死後、「豊国大明神」の神号を賜っており、そのため、天海は家康の神号を「大明神」とすることを嫌ったとも云われている。
天海は、一説には1536年陸奥国会津群高田郷の出身とされる。徳川幕府の参謀(いわゆるブレーン)として絶大の信頼を受け、家康、秀忠、家光の三代に仕えた。1625年(寛永2年)には江戸城の守護祈祷所として上野寛永寺(天台宗東叡山)の創建に尽力し、1643年、108歳という長寿で没した(但し生没年には諸説あり)。死後は、「慈眼大師」の号を賜わっている。
天海は、その出自の曖昧さから、明智光秀との関係についても様々な議論を呼んでおり、非常に謎めいた人物である。
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ところで、将門死後、間もない頃に書かれた『将門記』(真福寺蔵)では、将門のことを「明神」と称している。また明治40年発行の『平将門古蹟考』(碑文協會)の中で著者の織田完之氏もこの点に触れ、「江戸の地に明神と唱ふる神社はたいてい将門を祀れり、後に祭神を取替たるものもあり」と述べている。
この点、「明神」の語自体は平安時代以前から用いられており、その語源については必ずしも明らかでない。しかし、明治7年に築土神社で便宜上、将門が主祭神からはずされる際、同時に「大明神」の社号も「神社」に改めていることからすると、少なくとも関東においては、「明神」には将門を連想させる語としての意味が全く無かったわけではないと思われる。
他方、「権現」は「権化(ごんげ)」「化現(けげん)」などと同義で、もともと仏が救済のため化身となって現れることを意味し、仏教的色彩の強い語であったことから、神仏分離を推進する明治政府下にあって、当時「(大)権現」の社号を掲げていた諸社の社号も「神社」に改められている(『神道事典』弘文堂)。
なお、築土神社は承応3年(1654年)2月、江戸城二の丸にあった東照宮の古社を拝領し境内に移築したが、その時行われた遷宮祭には上野寛永寺の住職が立ち会っている(『築土神社御鎮座壱千弐拾年沿革誌』築土神社社務所)。この東照宮は昭和20年戦災で焼失後再建されることなく、廃絶された。 |
 上野寛永寺(東京都台東区)
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