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人物由縁 >> | 有栖川宮熾仁親王(1835〜1895年) |
下の写真は戦災焼失前の築土神社拝殿を写したものである。画像が粗くて見にくいが、よく見ると拝殿奥の上部に「築土神社」と記された額が掲げられているのが分かる。これは有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が明治13年(1880年)2月築土神社を訪れた際、自ら筆をとり当社に奉納されたものである(昭和20年戦災で焼失)。
有栖川宮熾仁親王は天保6年(1835年)、有栖川宮家の第一王子として京都に生まれた。17歳のとき孝明天皇の妹 ・和宮(かずのみや)と婚約していたが、文久2年(1862年)政略結婚により、和宮は14代将軍家茂に降嫁。その後、倒幕を決定づけた戊辰戦争が慶応4年(1868)1月勃発すると、熾仁親王は「東征大総督」に任ぜられ、さらに明治10年(1877年)の西南戦争でも「征討総督」となり、明治政府軍の最高指揮官を務めた。明治28年(1895年)61歳で没。
ちなみに、徳川15代将軍慶喜の生母 ・登美宮吉子(とみのみやよしこ)はもともと有栖川宮家の出身で、熾仁親王は吉子の甥にあたる。そして吉子は後に水戸徳川家に嫁ぎ慶喜を産んでいるから、熾仁親王と慶喜とは、いとこ同士ということになる。 |
 戦災焼失前の築土神社拝殿(昭和初期頃撮影)
関連ページ ↓ 【和宮】
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