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藤原秀郷 |
藤原秀郷は将門討伐に向かう途中、成田山新勝寺(千葉県成田市)にて戦勝祈願をしたとされるが、これについて1814年(文化11年)編纂の『遊歴雑記』に次のような記述がある。
「下総の国成田山の不動尊は弘法大師の作ながら、俵藤原秀郷等が念願せし平の将門を調伏の尊像なるによって、神田明神 ・元鳥越明神 ・築土明神の三ヶ所の氏子はまいらず。その像へ参詣すれば氏神の祟ありて途中に煩ひ怪我などする事とかや」。
これをみるに少なくとも江戸中期頃までは、築土神社の氏子は将門の祟りを恐れ、成田山への参詣を意図的に避けていたことが伺える。
秀郷は940年(天慶3年)の平将門の乱に際して押領使(おうりょうし)に任ぜられ、平貞盛らと協力し下総国(現・茨城県)にて将門を破り、乱を平定。この功積によって秀郷は従四位を賜わり、下野守に任ぜられた。
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