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田中角栄 |
現在の田中土建工業(新宿区) |
かつて牛込(新宿区)にありし頃の築土神社社殿は昭和20年戦災で全焼した。翌昭和21年8月20日、富士見町(千代田区)に移転し新社殿を竣工。以後昭和29年まで当社は同地に鎮座した。
下の写真は富士見町鎮座当時の築土神社社殿の写真であが、当社殿は、その頃、築土神社氏子内の千代田区飯田町2丁目(現・飯田橋4丁目)に住居を構え建築業を営んでいた田中土建工業(株)の社長 ・田中角栄元総理により無償で建立されたものである。昭和21年3月1日付の社殿設計図が現存するが、そこには確かに「田中土建工業」の名が見える。また、新社殿竣工に際し、築土神社宮司以下、氏子崇敬者から田中角栄氏宛に感謝状を贈ったとの記録もある。 |
昭和21年竣工当時の築土神社社殿(千代田区富士見町に鎮座)
田中角栄氏と築土神社との間にこのような接点が生まれた背景には、以下のような経緯がある。
田中角栄氏は大正7年(1918年)新潟県二田村(ふただむら:現 ・西山町)に生まれ、高等小学校卒業後上京し、昭和16年19歳の時に知人の紹介で千代田区飯田橋の建築業者 ・坂本家の住居の一部を借り受け田中建築事務所を開設。翌昭和17年、坂本家の娘”はな”と結婚し、以後、飯田橋を本拠とした。さらに昭和18年に建築業を拡大し、「田中土建工業」を設立。年間工事実績で全国50社に数えられるほどの急成長を遂げた。ちなみに、この頃から金銭の羽振りが良かったらしく、飯田橋から程近い神楽坂の花街に通い始め、そこで親密になった芸者との間に2人の男児(すなわち、田中真紀子氏の腹違いの兄弟)を設けている。
その後、昭和20年戦災で牛込の築土神社をはじめ、飯田橋周辺は一面焼け野原となったが、不思議なことに田中角栄氏の住居と田中土建工業の事務所だけは全くの無傷で残った。田中角栄氏はのちに、この時のことを、「その運の強さは神様の思し召しと思いながらも、世の中のために、私のなしうる何かをしなければならないと、心の奥で激しく感じた」と記している。
田中土建工業は、以後も、昭和38年3月に現在地の新宿区本塩町に移転するまで、ずっと飯田橋を拠点として活動。もともと土建屋は、地元に密着して事業を展開する傾向が強く、地元の氏神たる神社に対しても協力的なものだが、田中土建工業も氏神たる築土神社に対しては当初から非常に好意的で、前述した昭和21年の富士見町移転時のみならず、その後、昭和29年に築土神社が現在地(九段下)へ移転遷座する際にも多額の寄付金を納めたことが記録されている。 |
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