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将門の首桶(築土神社旧蔵) |
かつて当社の御神体であったこの首桶は、京都に晒された平将門公の首を納めたと伝えられるもので、側面に「武蔵国江戸郷上平河村天文壬子十一月十五日御せんくう之事」、桶蓋には「江戸上平川」との墨書がある。
1872年(明治5年)11月付け『築土神社什器其外明細目録』に「真鍮六角厨子従古来深秘祕之由申傳候」とあり,首桶は,真鍮(しんちゅう:黄銅製)の六角形の厨子(ずし:物を入れる容器)の中に安置されていたと思われるが,この首桶は見ると目が潰れると云われ、宮司すら容易に見ることは許されなかったという。
1814年(文化11年)に書かれた『遊歴雑記』にも、「明神の御正体(御神体)は将門の冠なりとも髪なりとも或いは髑髏(どくろ)なりとも云い、住職も見たることなし」「住職、われ別当の身(神社を取り仕切る地位・身分)として神体を見届けざるは不束(不都合)なりとて厨子ひらき見たるに忽然と眼盲たりとなん」という伝説が記されている。
左の写真は先々代宮司(大正15年没)の時に、東京市(現・東京都)の市史編纂のため特別に撮影されたもので、大正年間発行の『東京市史稿』(東京市役所)に掲載されている。
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なお、宝永5年(1708年)刊行の『牛込津久戸大明神略縁起』(国立国会図書館蔵)には、築土神社本殿の御内陣(御扉の中)に、将門の首が死後770年経た現在(当時)も朽ち果てること無く安置されていると記されている。
この点、将門の首の行方については諸説あるが、そのほとんどは伝説として語り継がれているに過ぎず、実際に将門の首がどこへ葬られたかは必ずしも明らかではない。しかし、昭和20年の戦災で焼失するまで、築土神社本殿にこの「将門の首桶」が安置されていたことは事実であり、首桶の中身、すなわち将門の首そのものも、前記『牛込津久戸大明神略縁起』の伝える通り、かつては当社の本殿に一緒に祀られていたと考えるのが自然であるようにも思える。 |
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