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築土神社御鎮座壱千弐拾年沿革誌 |
1960年(昭和35年)、築土神社は一般頒布用に『築土神社御鎮座壱千弐拾年沿革誌』を発行しているが、同書では、「御祭神」として記されているのは「天津彦火邇々杵尊」のみで、なぜか「将門」については一切言及されていない。
おそらくこれには、旧体制下の皇国主義に対する一定の配慮があったものと考えられる。
明治5年3月、明治政府は宗教行政全般を掌握すべく教部省を設立し、全国の神社を統括・指揮した(但し、教部省の事務は全て明治10年1月に内務省の部局に承継されている)。
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当時、政府は天皇復権・神道優位を推進し、同時に、いわゆる「皇国史観」(天皇への忠義を重んじる歴史観)の影響もあり、将門を天皇に反抗した「逆賊」と評するような風潮も一部に見られるようになった。
そこで明治7年、築土神社では便宜上、将門を主神からはずし、天皇系統と関わりの深い「天津彦火邇々杵尊」を新たに勧請することで、以後、表向きは将門との関係を希釈化したのである。
その後、昭和21年に日本国憲法が制定され政教分離が確立。神社は国の管理から解放された。もっとも戦前の皇国主義は完全に払拭されたわけではなく、将門を祭神とすることには依然抵抗があったものと思われる。上記『築土神社御鎮座壱千弐拾年沿革誌』の記述をみても、少なくとも戦後十数年間は将門を祭神として掲げることに慎重で、依然、築土神社は将門と無関係の神社であることを装っていたことが伺える。
築土神社が将門を祀る神社であることを再び公言するのは、鎮座1050年を記念し御由緒を発行した平成2年のことである。ここでも「主神(しゅしん)」はあくまで「天津彦火邇々杵尊」のままで、将門は未だ「相殿神(あいどののかみ)」にすぎないが、それでも同由緒に「将門」の名を明記したことは画期的であったといえる。 |
関連ページ ↓ 【天津彦火邇々杵尊】
【御由緒新装発行】
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