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築土神社は創建以来一千余年、各地を転々としている。下図はその主な鎮座地等を列挙したものである。 |
| 鎮 座 地 | 鎮座年 | 移転原因 | 社 名 | (1) | 上平川村津久戸(現・千代田区大手町将門塚付近) | 940年〜 | 創建地、将門を祀る | 津久戸明神 | (2) | 江戸城の北西(現・千代田区北の丸〜皇居乾門内) | 1478年〜 | 太田道灌江戸築城 | 津久戸明神 | (3) | 上平川村田安(現・千代田区田安門外九段上付近) | 1552年〜 | 頻繁な洪水(推定) | 田安明神 | (4) | 下田安牛込見附(現・千代田区飯田橋駅西口周辺) | 1589年〜 | 家康江戸入城及び拡張 | 田安明神 | (5) | 新宿区筑土八幡町(現・東京修道院敷地内) | 1616年〜 | 江戸城外堀の拡張 | 築土明神 | (6) | 千代田区富士見町(現・九段中学校敷地内) | 1946年〜 | 太平洋戦争で社殿焼失 | 築土神社 | (7) | 千代田区九段北一丁目(現在地) | 1954年〜 | 九段中学校の建設 | 築土神社 |
それぞれ鎮座地や鎮座年代には諸説あるものの、各種資料を検討した結果、概ね上図に集約されよう。これを見ても分かるように、築土神社は、最初、大手町の将門塚付近に創始してから、実に6度も移転を繰り返しているのである。それぞれ移転の原因は、「太田道灌江戸築城」「家康江戸入城」「太平洋戦争」など歴史上の重大事件に関係しており、その移転の経緯をみるだけでも江戸の歴史を知ることができる。
そこで、それぞれの移転の経緯について若干考察を加えるに、まず(2)であるが、これは太田道灌が江戸城を築城する際、当時川越城(埼玉県)の北西に氷川明神があったことからこれになぞらえ、津久戸明神を江戸城の北西に遷座させて江戸城の鎮守神としたことによる。この点、太田道灌時代の江戸城の正確な位置は分かっていないが、現在の皇居からそう遠く離れているとは考えにくい。とすれば、「江戸城の北西」とは、おそらく今の田安門内から北の丸公園あたりであると思われる。
次に(3)であるが、当時の江戸は湿地帯で、今の大手町から九段下辺りまで入江になっていたため頻繁に洪水の被害に遭っていたという。そこでこれを避けるべく、津久戸明神をより高台に位置する田安台(九段上)へ移転させたものと思われる。ちなみに『将門地誌』(朝日新聞社)によると、1201年(建仁元年)8月31日東京湾北部に大津波が押し寄せ、平川村や柴崎村一帯が流されたとある。また『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)にも、当時江戸周辺に起きた津波や洪水についての記述がある。
但し、当時江戸城の城主であった北条氏康はこの頃、江戸城を拠点に主に下総方面への領国支配を強化すべく、家臣の遠山氏などに頻繁に江戸城の改修・整備を行わせており、一説には当社も、この時の江戸城拡張工事により、江戸城外の田安台へ移転させられたとも云われている(『築土神社及境外末社稲荷神社一班』 文武書院)。いずれにしても、この時の移転は、当時の江戸の自然環境ないし社会情勢に大きく関わっている考えられ、非常に重要である。
(5)は、その前年に大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡したことを機に、2代将軍秀忠の主導で江戸城拡張工事が本格的に開始され、立ち退きを強いられたことによる。この時、あえて氏子区域外の新宿区筑土八幡町を替地に選んだのは、当社の別当であった楞厳寺が天正年間(1573年〜)頃に上平川から新宿区筑土八幡町付近に移転していたことから、築土明神も別当近くの同地を替地に選んだものと思われる。なお、同地はもともと筑土八幡宮の境内地であったのを築土明神が一部借り受けていたとの記録もあるが、明治初期の登記簿(地券)では所有名義は「筑土神社」となっている。
(6)では、戦災で社殿が焼失したため、千代田区(当時の麹町区)富士見町の区有地を無償で譲り受け社殿を新築した。これまで、筑土八幡町鎮座以来328年の間「氏子は千代田区なのに氏神は新宿区」という奇妙な状態にあったことから、絶えず氏子の間で「遠くてお参りしにくい」「隣にある筑土八幡宮と間違えやすい」等の不都合性が指摘されいた。そこで、かかる不都合を解決すべく、戦災を契機に氏神をもう一度「田安」の地に戻そうという熱が広がり、当地へ移転したのである。
その後(7)では、区立中学建設予定地の一部が境内地にかかり参道が極端に手狭になるため、氏子より寄付を募り、築土神社の末社であった世継稲荷の境内地内へ移転した。
ちなみに、昭和29年時点で世継稲荷境内は「国有地」扱いとなっていた。これは、明治初年に江戸城をはじめ徳川家所有の土地や屋敷が明治政府に徴収された時、当時田安徳川家の管理していた世継稲荷も同様に引き渡されたため国有化されたか、もしくは、大正4年(1921年)「国有財産法」の制定に伴い国有化されたものが、昭和22年(1947年)「国有財産処分法」(国有化した境内地を社寺に返還するための根拠法)制定後も依然返還されず、野放しにされていたためと思われる。
そこで、昭和29年(1954年)「国有地指定取消願」を提出して同地を築土神社の所有地に変更するとともに築土神社社殿を新築。戦災で焼失以来放置されていた世継稲荷も、同時に再建した。
ところで、こうして築土神社の遷座史を眺めると、当社の鎮座地は、一旦は、大手町の将門塚付近とされる最初の鎮座地(1)から徐々に遠ざかっているが、(5)の筑土八幡町を境に今度はまた(1)に近づいて行っているのが分かる(下図参照)。これが将門公のお導きだとすれば、何かのきっかけで今後さらに移転を繰り返し、何百年か先、再び大手町へ帰る日が来るのだろうか・・・。
築土神社の歴代鎮座地(築土神社社務所作成) |
関連ページ ↓ 【築土神社御由緒】
【太田道灌】
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