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大田南畝(谷文晁筆、『近世名家肖像図巻』/東京国立博物館蔵)
江戸中期の作者であり、また歌人としても有名な大田南畝(おおたなんぼ)は寛延2年(1749)、江戸城警固を任とする下級武士の子として江戸牛込に生まれた。名は直次郎。号は屬山人(しょくさんじん)。明和2年(1765)17歳で父の後を継ぎ幕臣となるも、一方で学問に励み、18歳で最初の著作「明詩擢材」を刊行。その後も『自筆百首狂歌』『壬戌紀行』等多くの詩集や紀行文を刊行し、江戸庶民に親しまれた。
とりわけ、明和5年(1768年)から文政5年(1822年)にかけて書かれた『半日閑話』(はんにちかんわ)は当時の江戸を知る上で貴重な資料となっているが、この中で南畝は世継稲荷(築土神社末社)についても紹介している。この頃の南畝は世継稲荷を何度も訪れており、当時飯田町中坂下に居住していた滝沢馬琴との親交も深かった。当社の社記にも、世継稲荷の「筋向」にあった「小松屋百亀」なる浮世絵師の家に南畝と馬琴が頻繁に出入りし、両者の「合作の石の鳥居」が昭和30年頃まで残されていたとある。 |
関連ページ ↓ 【世継稲荷(田安稲荷)】
【滝沢馬琴】
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